明戸 まゆみ(あけどまゆみ)

明戸(あけど) まゆみ  本名:井口 真弓美(いぐち まゆみ)旧姓:明戸  家族:夫(歯科医師)

  • 役職・所属

    荒川区議会:財政援助団体調査特別委員会 委員長(2018年度)
    荒川区議会:建設環境委員会 委員(2018年度)
    国民健康保険運営協議会 委員(2018年度)
    交通安全対策協議会 委員(2018年度)
    東京広域勤労者サービスセンターサービス向上懇談会 委員(2018年度)
    荒川区自民党区議会議員団 会計(2018年度)
    あらかわ区まちの駅ネットワーク 事務局長(2008年-現在)
    NPO法人 地域交流センター 客員研究員(2008年-現在)
    尾久消防団 第6分団 部長(2009年-現在)
    荒川相撲甚句会 会員(2010年-現在)
    ホタルの会 会員(2011年-現在)
    荒川区俳句連盟 相談役(2017年-現在)
    (社)東京青年会議所OB会(2011年-現在)
    東京荒川西ライオンズクラブ(2011年-現在)

    荒川区議会:文教子育て委員会 委員(2008・2013・2015年度)
    荒川区議会:福祉区民生活委員会 委員(2009年度)・副委員長(2016年度)
    荒川区議会:建設環境委員会 委員(2011・2014・2018年度)
    荒川区議会:総務委員会 委員(2010・2012年度)・委員長(2017年度)
    荒川区議会:震災対策・危機管理調査特別委員会 委員(2008-2009年度)・副委員長(2010年度)
    荒川区議会:震災対策調査特別委員会 委員(2015年度)・副委員長(2013年度)
    荒川区議会:健康・危機管理対策調査特別委員会 委員長(2014年度)
    荒川区議会:観光・文化推進調査特別委員会 副委員長(2011-12年度)
    荒川区議会:公共施設老朽化等対策調査特別委員会 委員(2016年度)
    荒川区議会:財政援助団体調査特別委員会 委員(2017年度)・委員長(2018年度)
    荒川区議会:議会運営委員会 委員(2013・2014・2016・2017年)
    荒川区自民党区議会議員団 政調会副会長(2009・2011-12年度)
    荒川区自民党区議会議員団 副幹事長(2013-2014・2016-17年度)
    荒川区自民党区議会議員団 会計(2018年度)
    荒川区地域振興公社(ACC)評議員会委員(2008-2009・2011年度)
    荒川区芸術文化振興財団(ACC)評議員会委員(2012・2017年度)
    荒川区青少年問題協議会 委員(2008-10・2013年度)
    荒川区土地開発公社評議会 委員(2008-2010・2013・2015・2017年度)
    荒川区住宅対策審議会 委員(2010-2011・2017年度)
    あら坊妹キャラクター選定委員会 委員(2012年度)
    荒川区国民健康保険運営協議会 委員(2012・2018年度)
    交通安全対策協議会 委員(2016・2018年度)
    東京広域勤労者サービスセンターサービス向上懇談会 委員(2018年度)
    民生委員推薦会 委員(2016年度)
    介護保険運営協議会 委員(2016年度)
    消防団運営委員会 委員(2014・2015年度)
    都市計画審議会 委員(2014年度)
    清掃審議会 委員(2014年度)

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    経歴

     

    生年月日

    昭和45(1970)年9月18日生まれ 3人兄弟の長女

    学歴

    青森県立三本木高等学校 普通科 卒業
    岩手大学 人文社会科学部 人文社会科学科 卒業
    東京大学 大学院 総合文化研究科 修士課程 言語情報科学専攻 修了
    國學院大學 大学院 経済学研究科 博士課程後期 経済学専攻 単位取得退学

    職歴

    (株)田清商店(青森県十和田市) 事務員
    (有)高木新聞店(青森県十和田市) 新聞配達員
    東北農政局、県農業試験場、市役所(青森県十和田市) 臨時職員
    NPO法人 地域交流センター(東京都港区) 研究員
    「日本ぐるっと一周・海交流」
    「安全・安心まちづくりワークショップ」
    「お台場Eボート防災交流大会」
    「都心の水辺探訪クラブ」等の事務局を担当。

    著書

    『海洋観光立国のすすめ~こころ美しい日本の再生』

    (2007年3月・七つ森書館、中瀬勝義・庄司邦昭とともに共著)

    「みなとまちづくり通信」

    (『港町から』 2008年①倉橋島、2009年②横須賀・浦賀、2009年③敦賀)

    「みなとまちを交流の舞台に―みなとまちの人情と魅力を語る」

    (2010年7月、(財)日本交通公社、『観光文化 202号 特集:みなとまちの賑わい再生―港とまちの一体化を!!』)

    『詩集*楽しい老後』

    (2006年8月:自主制作)

    資格

    珠算検定3級、普通自動車第1種免許、小原流師範1(いけばな)、中学校・高等学校教職免許(英語)、学芸員資格

TOPIC -議員前夜 –

 

小さい頃は泣き虫でした。絵を描くのが好きで、紙にも描いたけれど、路上のアスファルトがキャンパスのことも多かった。よく外で遊んだものでした。本を読むのも好きで、母の買ってくれた『少年少女伝記全集』をコタツの中でさえも読んだりしていました。
小学校までは大阪市西淀川区姫島に住んでいて、まわりは工場地帯で、その当時は小さいと思っていなかったけど、小さな鉄工所やなんかがたくさん並んだところで育ちました。荒川区を一眼で気にいったのももしかしたら昔のなつかしい風景に出会ったからかもしれません。
中学校からは青森県十和田市。両親の実家のある町に引っ越してきました。3年間大阪弁が抜けなくてたいへんな思いをしました。早口でしゃべる地元の子達の言葉は3回聞いても聞き取れず、時には転校生ということでいじめられたこともありましたが、なんとか乗り切り、良い先生にも会えたので今は楽しい思い出です。
高校は、地元の普通高校の三高へ行きました。他に工業高校、農業高校、商業高校の他は私立ということを考えると他に選択肢はありませんでした。楽しい高校生活でした。今でも年に数回実家に帰る時に会うのはこの時代の同級生です。言葉で表現をしようと考えて実践したのもこの頃で、笑ってくれる人がいたのでずいぶんシニカルなジョークを言ったりもしていました。
中学・高校とバドミントン部に入っていました。バドミントンというのは結構ハードなスポーツで、今体力があるのはこの頃にずいぶん体力づくりをしたからだろうと思われます。
高校3年生の時の大学受験は失敗したので、地元の洋服屋さんに就職しました。総務でお釣りを数えたり、両替しに銀行に行ったり、仕入等の入力をしたり、ダイレクトメールの宛名を書いたりしておりました。初めて出た社会なので、勉強になることもたいへん多かったですが、女性の職場に嫌気がさして(19才で若かった!)退職。
今度は事務じゃなくて体を動かす仕事をしようと新聞配達所へ就職。新聞配達は夜中の2時に起きて、眠い目をこすりながら 新聞集配所まで行きます。チラシを折り込んで、朝6時までに全部で250件ほどの家々へ配達します。雨の日も風の日も、台風の日も、大雪の日も。でも一番つらいのはみぞれの日。新聞は濡れるし、水溜りの下には氷が隠れているから自転車でも原付バイクでも転んでしまう。真っ白な田んぼの雪の原に新聞が散乱する。
新聞配達は集金もセットでこれまたかなり辛い。いない人の家へ何回も行くことたびたび。ある年のクリスマスの日、いつもと同じように集金に行ったら、「新聞屋さーん」と呼ぶ声。忘れ物かと思ったらチョコレートをくれるという、クリスマスプレゼントだと。うれしくて泣きながら帰った思い出があります。最初のうちはまた集金人が変わったのかと叱られたりしましたが、最後の頃には信頼を得れて事故にあった時は心配してくれた人もいたのはその後の人生に大きな影響があったと思います。
新聞配達は1年半くらいでしたが、最後の5ヶ月は、家に若い娘が昼間いるもんでないという母の言葉に負けて、昼は十和田市役所の農業委員会の臨時職員、夜から朝にかけては新聞配達。1日12時間くらい働いていました。給料は多かったけど、あ と1ヶ月で臨職が終わるという時に、朝6時頃、新聞配達を終えて原付バイクに乗って、集配所まであと100mという地点で車に轢かれてバイクは大破、私は一回転して、その間に轢いた車はひき逃げを遂げたのでした。
ケガはくるぶしのヒビで済んだが歩けないので、3ヶ月程休んで、そのまま仕事も辞めにして。この時期は「人生でこんなに暇なのは今だけだろう」からと家でたくさん本を読みました。
整形外科と接骨院に掛かっていましたが、この接骨院である老女が農林事務所で臨職のアルバイトがあるからと誘ってもらったのが縁の始まりで、農政局、県の農業試験場、短いものでは家畜保健所、土木事務所と24才で大学の受験をするまで様々な出先機関でお世話になりました。
これまた後1ヶ月で農業試験場の臨職が終了という時、これまた風邪だと思っていたのが腎盂炎で2週間入院し、入院生活を始めて経験しました。この時に私の母はなぜか「この子を大学に行かせてあげよう」と思ったそうです。
1年通信教育で受験勉強して、センター試験を受けて、弟が高校を卒業するのと交換に私は岩手大学に入学しました。大学時代にがんばったのは、勉強と大学祭とアルバイトも少し。興味のある授業を取って得た単位は卒業単位のちょうど2倍の252単位。大学祭は2年の時が広報部長で、校内装飾、ポスター、パンフレット、案内標識、対外広報を一手に引き受け、というか仕事を割り振り、「マシェリ」という盛岡で出始めたばかりのコミュニティ誌に折り込み広告を打ち、「らしく」ということで校内全部に万国旗をはりめぐらせたり、ベニヤ3枚を合わせた案内版をつくったり、来た人が今年から「規模が大きくなったのか」と私に知らず尋ねたその言葉がうれしくて・・・。
この大学の4年の夏に、ドイツ語の集中講義に来た東大の臼井先生に勧められて、神話研究を卒論に書き、大学院に行くことにして、東大の駒場を受験しました。6時間の筆記試験、外国語3種類(英語・フランス語・ラテン語)、記述、面接の試験に、6倍の倍率でしたが、なんとか合格し、東京に来たわけです。
色々あって卒業までが長かったので、アルバイトもたくさんしていました。長かったのは、東京都老人総合研究所(心理・言語)、初台のスチュワーデスになりたい女の子のための専門学校の教養の先生。どちらもかなり勉強させていただきました。
修士終了後、まちづくりコンサルの老舗、NPO法人地域交流センターに就職しました。こんな仕事が世の中にあったのか!と思ったほどでしたが、たぐいまれなる田中栄治という人物と出会えたことがまた新しい世界に出会える一歩だったことは確かです。
・・・とまだまだ続くのですが、まぁここまで来て言えるのは、信頼こそすべて。信頼したら、覚悟を決めてとことん付き合う、それが私のモットーかな。
ひとつだけ。選挙に出ることになったきっかけは?とよく問われますので、そのことについて。2004年に荒川区の諏訪台中学校で「安全・安心まちづくりワークショップ」というのを地域交流センターが事務局で開催しました(ちなみに2004年はかの事件があっ て区長が途中で変わった年です)。その事業の担当だったので、何回か区役所や関係者を訪ねてきていたのですが、その時に「あー荒川区って面白いところだなぁ」と思ったのがきっかけで、今まで住んでたところを引越すことになった時に、荒川区で住む ところを探しました。その「ワークショップ」の時にお世話になった方が近くに住んでいて、今度、法人会有志で町屋の駅前を毎月8日に掃除をするから手伝いに来るようにというので毎月通って、3年程経った時に、ある議員さんが亡くなって候補者を公募しているからというのを聞いて、公募に応じたというのがきっかけです。その時の私なりの政治に打って出ようと思った理由は「民主主義をもう一度考えなおしたい」ということでした。日本の政治は本当に民主主義なのか、選挙も社会の仕組ももう考え直す時期にきたのではないだろうかと思ったのがきっかけでした。そこはまだ経験の浅い私ですので、多くの人の意見を聞いて答えを出していければと思っておりますので、ぜひご意見をお聞かせいただければと思います。
まだまだ語りつくしておりませんので、今度ぜひ直接お聞ききください。